先日、会社の他のチームの責任者にぼくが普段思っているご意見をお話ししました。
しかしながら、日々の業務が多いことを理由にぼくのお話しに対し、全て「ん〜難しいね」との返答しかしてくれませんでした。論理立ててぼくが考える正しいと思われることや、今はすぐに成果がでなくても長期的に見れば部署全体でシナジーが得られるであろう会議の開催や意識合わせ、そして何よりシステムの開発や改修に関わる人件費やコスト、時間を短縮させるために意識合わせしましょうよという話でした。
しかしながら、やはり「ん〜難しいね」とのこと。そこでふと思いました。
思考が死んで脊髄反射しかできなくなってる・・・何を言ってもきっと無駄だ。。。
目次
脊髄反射するように調教されると死ぬまで何も考えられなくなる
ぼくにも経験があります。
数年前のぼくがそうでした。毎日朝8時からのミーティングと上司がついてくる飛び込み営業と帰社後のミーティングとそこからの資料作りと部署の数値管理と資料作成と押し付けられた単独事業の運営で、仕事を持って帰って寝るのが3時、4時とかで2、3時間しか寝られない日々。
考えるよりも上司の言うことをいかに受け流して、詰められてとりあえずあやまってその場を逃げることだけを考える毎日。
まったく何も考えられませんでした。当然転職活動的なこともしましたが、何も考えられないのでどこも受かるわけもなく、負のスパイラルでさらに思考停止。
毎週金曜日には逃げるように帰路につき、お決まりのラーメン屋に車を飛ばして、生きている実感を喰らう日々でした。
とにかく自分の処理能力以上のものが目の前に積み上げられると、ただ呆然として目の前のものしか見えなくなります。そして思考は停止しました。
ネット回線業者の新人が怒られていました。
先日、ネットの回線を新しく引きました。そこに来た業者は二人組。
中年の上司と新人でした。
新人は見るからに使えなさそうで気も効かない。しかし上司も問題だなと思いました。
だんだんと小言が増えたと思うと客先だというのに怒鳴りつけ出し、しまいには工事後に新人に電話をかけさせて自分が忘れた工事道具を今すぐ取りに行っていいかを聞いてきました。すでに外出していたのですぐに戻れないと伝えると電話の向こうで新人を恫喝して怒鳴っていました。
これじゃ思考停止になるわと納得しました。
立場が上の人間に恫喝され萎縮することで、思考は停止します。
そういえば同僚が後輩に対し同じように恫喝して、その後輩も同じく喋れないくらい萎縮してたっけ。
もともと気が利かないタイプであっても、よほどのことがなければ萎縮してしまいまいす。
そして停止した思考は、限界がくるまで全てに無反応になるようことだけを指示します。
「ん〜難しいね」といった他チームの責任者も同じ。思考停止してる。
この人も結局同じ。いじめられっ子体質というか、来るもの全てを受け入れた結果、何もできなくなり、少しでも目の前の問題を減らしたい。でもこれ以上できない。でも断りきれない。
ん〜難しいね
思考停止しないために
思考停止へのプロセスはこんな感じでいくつかある。
タスクが積み上がったり、目上の人に恫喝されたり、抱え込みすぎてしまったり
とにかく逃げられない場所に追い込まれてその結果、目の前のことのみに集中せざるおえないという本能こそが思考停止なのだ。
思考停止は人間を人間たらしめる論理的思考を廃し、動物と化した状態とも言える。
豚だ。そんなもん。
では思考停止にならないためにはどうしたらいいのか。
それ適当になることだと思う。カタカナのテキトーではない。
漢字の適当だ。
適宜とも言い換えられる。
状況に応じて、緩急をつける。人によって対応の仕方を変える。やるべきことをやったらあとは手を抜く。
そうすると余裕が生まれて少し離れた視点で物事の全体像が見えるようになる。
全体像が見えるとさらに緩急をつけられるようになるし、処理能力が上がる。そしてここからここまでは自分じゃなくて、人にお願いできるとか自動化できるとかソリューションが見えてくる。
だから思考停止になる程追い込まれちゃダメだと思う。
社畜の定義は色々あると思うけど、思考停止している人間こそ社”畜”なんだと思う。
確かに脊髄反射だけするように調教すれば経営側にとってはいいと思う。でもそれって正しいビジョンと戦略、そしてそれを実現するための目標設定と戦術と兵器と兵站があってこその話だと思う。よっぽどのカリスマ経営者とか頭がめっちゃいい組織じゃない限り、末端の現場の脳みそを思考停止に追い込んでしまうのは終わりの始まりだと思う。
デバッグは、見つけた人間が適宜行うことが最も効率的だと思う。作業はその人じゃなくてもいいから、それを受け入れたり考えたりすることが肝要だと思う。
だからこそ、体制側には必要であれば抗う必要があると思う。
これからもぼくは適宜抗っていきたい。
その結果よりも、抗うことにこそ意味がある。